第21課 学校週五日制の波紋
2002年度から、新学習指導要綱に基づいて、公立学校で学校週5日制が開始された。それはこれまでの学校教育が受験に向けた「知識偏重の詰め込み教育」に歪み、不登校や校内暴力、いじめなど「学校の荒れ」をもたらしたとの反省に立って、子供たちが「ゆとり」をもって学習できるようにする、また、「学校、家庭、地域社会が相互に連携しつつ、子どもたちに社会体験や自然体験など様々な活動を経験させ、自ら学び自ら考える力や豊かな人間性、たくましく生きるための健康や体力などの『生きる力』をはぐくむ」という趣旨に立って行われた教育改革であった。
しかし、「ゆとり教育」のために学習内容が削減されたことで、マスコミなどは一斉に「学力低下への不安」を騒ぎ始めた。しかも、私立で週5日制を実施する学校が、わずか55%に過ぎないという状況が明らかになるとともに、公私間で今まで以上に学力格差が拡大するのではないかという不安も重なって、親や教師たちからの不満が噴出した。改革を推進すべき文部科学省は、こうした親や教師たちの声に抗し切れなくなり、「勉強をしたい子どもがいれば、補習をしても問題はない。」と姿勢を転換したのだが、そのために公立学校でも土曜補習などの取組みが一気に広がり、「ゆとり教育」の方針にも矛盾が生じ始めたのである。これは文部科学省自らが受験競争の現状を追認したに等しく、教育改革に対する基本的な姿勢さえ疑われかねない事態となったのである。
学校週五日制の完全実施をめぐる議論の中で、繰り返し語られたのは「土日は子どもを家庭に返そう。」ということだった。子どもたちは、休日が増えたことを一様に歓迎しているのだが、親たちは学力低下が叫ばれる中で、我が子をのんびりさせてしまっていいのか、複雑な思いの中にいるがドミノ倒しのように各地域に広がるとすれば、学校五日制がなし崩しになる恐れがある。
この問題は、もう一度、教育改革の原点に立ち返って考える必要がある。もし「学力」を今までのような「知識の量」ととらえるのであれば、教える時間も中味が減れば、「知識の量」は減るのだから、「学力」は低下するのは当たり前である。しかし、「知識の量」のみで生徒を選別する受験制度や、個性を無視した画一的な授業の押しつけなど、「学歴や知育の偏重が子どもの荒廃を生み出している。」として、基礎基本を重視したゆとりある教育、個性に応じて子どもの力を伸ばすための選択科目の拡大などの改革に踏み切ったはずである。
戦後の日本は、欧米先進国に追いつけ追い越せとばかりに、先進国の文化や学問、知識を吸収してきた。確かに、その際に必要な学力は知識の量であったが、今の日本に求められている学力は、国際化する世界にあって新しい日本を創造していく力、新たな技術・文化を創造していく力である。言い換えれば、「自ら考え、課題を見つけ、主体的に課題を解決していく力」こそ「新しい学力」なのであり、「生きる力」に他ならない。
「ナンバーワンになるよりも、オンリーワンに」と訴えるSMAPの「世界に一つだけの花」が、中高生や若者の心にしみ込んでいったのは、決して偶然ではない。受験や出世競争に勝つことだけが人生ではないと、彼らは気づき始めているのである。趣味であれ仕事であれ、或いはスポーツであれ、人は自らしたいと思って選んだことであれば、誰に言われなくても自発的に学ぼうとする。「生きる」とは、正に一人一人が「世界に一つだけの花」(=個性)を咲かせることであり、再び子供たちを学歴や知育の偏重の教育に追いやるようなことがあってはならない。思えば、強制されていやいやすることを表す「勉強」という語を、学習の意味に使う日本人の教育観そのものに、そもそも問題があったのではないだろうか。