愛とはなんなんもの?

「愛とは」

 愛とは何であろうか。愛が何であるかはともかく、それは我々が感じることあるいは感じていることであるのは確かなのではないだろうか。つまり、それは客観的存在を肯定するかどうかに関わりなく、精神というものの範疇に入るものであろう。そして、精神が意識されたもののことを言うのか、無意識のものを含むのかはともかく、愛は意識されたものであることは確かなのではないだろうかということである。

 意識というものを考えたとき、(私の意見の「精神とは」で述べたように)その存在意義は、情報に対して既存のパターン化された反応(例えば、自律神経や条件反射等)を返すのではなく、様々な情報の(主観的)意味を統合的に判断し適応行動をする為の作業領域としての役割を持つものなのではないかと考える。それは、情報と行動がただ直結するだけなら、それを意識する必要がないのではないだろうかということである。つまり、ここでは意識を「指向性の統合とその統合された指向性実現の為の行動に対する意志決定としての思考の場」であるとして考えてみる。


 このとき、「精神とは」において精神を感覚・感情・記憶・思考という区分で捉えてみた。では、このような区分において、愛とはどの領域のものであると言えるであろうかということを先ず考えてみたい。

 ただ、愛というものが記憶や思考ではないのは確かなのではないだろうか。記憶に関しては、それが何における記憶(愛の記憶も含めて)であるにしても、以前に感受されたもの保存ということであろうから情報としては二次的なものであろう。また、思考というのは何らかの情報をもとにした意志決定(それは指向性の統合としての目的決定の場合もあれば、その為の行動決定の場合もあるだろう。)であるとすると、それは二次的に決定する行為ということであろう。

 これに対して、愛は感じるものとして直接意識に現れる(一次的な)ものなのではないだろうか。つまり、前述のように意識された精神というものを「指向性の統合とその統合された指向性実現の為の行動に対する意志決定としての思考の場」として捉えたとすると、それが(一次的に)意識されるということは、愛というものも何らかの指向性を持った情報としての意味を持つものということになるだろう。


 ここで、精神的指向性について少し考えてみる。指向性とは、他の可能性というものを前提として何かに向かうということであって、それはつまり何らかの限定がなされるということであろう。そして精神的指向性と言った場合、ふたつの(限定としての)方向性を考えることができるのではないだろうか。

 それは、ある限定的な対象に向かうという方向性と、ある限定的な目的に向かうという方向性である。前者のより根本的な役割は、限定的な方向で捉えることによって世界を対象化することにあるのではないだろうか。例えば視覚は光、聴覚は振動という対象情報に向かうもの(逆に言えば視覚・聴覚という限定的捉え方をすることで、対象という情報を創り上げること)であり、これは感覚の領域ということであろう。また、後者は対象を何らかの目的に向かわせるということであり、そこにも対象の限定性は内在するであろう。別の言い方をすれば、それは対象を合目的化するということであろう。例えば、快・不快はその行動の促進・抑制という目的に向かわせるものであり、これは(快・不快を伴う)感覚の一部(やわらかいや暖かい・痛いや熱い等)と感情の領域ということができるのではないだろうか。

 では、先ず愛は感覚であると言えるであろうか。ただ、五感に代表される感覚というものは、指向性の対象が厳密に限定されているように思える(前述の例のように、視覚の光や聴覚の振動等)。これに対して、愛の場合は様々な愛のあり方があり、その対象がそれ程一般性を持って限定されているようには思えない。

 そして、感覚はその目的指向性が明確でない(快・不快を伴わないような感覚)場合も多いし、逆に快・不快を伴う目的が明確な感覚の場合はそれに対する行動というものが直結しているように思える(例えば、まぶしいとき目を閉じるとか、熱いときそれを避ける等)。これに対して、愛の場合はそれが何らかの方向性を持った行動を喚起するにしても、具体的な行動が直結しているとは言えないのではないだろうか。例えば、愛を感じたときにはすぐにそれを抱きしめてしまうなどという訳ではないであろう。

 つまり、それは具体的な行動ではなく、抽象的目的(行動)に向かわせるものなのではないかということである。そして、その抽象的目的の実現の為にその状況に合わせた具体的行動を選択するということであろう。

 また、根本的にここでは、世界をある限定的な方向(指向性)で捉えることによって、区分する(対象化する)為の感受機能としての役割を持つものとして、感覚を意識的精神という範疇の中で区分しているのであるから、愛がそようなものでないのは確かであろう。それは、愛は何かを対象として感受するものではなく、感受された対象に対して何かを感じることであろうということである。つまり、愛は対象を合目的化する為に、何らかの行動を喚起する目的指向性であろうということである。


 それでは、愛は感情であると言えるであろうか。感情というのは様々な区分(例えば、喜び・怒り・悲しみ・恐れ・嫌悪・驚き等)があり得るのであろうが、基本的に快と不快という2種類に大別できるのものなのではないだろうか。そして、感情の場合は感覚と違い限定的な対象に向かうのではなく、(「精神とは」で述べたように)より抽象的あるいは全体的・包括的な状況に対する(目的)指向性を示すものとして行動を促すものと言えるのではないだろうか。

 確かに愛は愛情という言われ方をするように、感情と近いようにも思える。それは、感情の場合は感覚のように対象が明確に限定されていない為、それによって喚起される行動というものはその状況によって多様な形で現れることによるのではないだろうか。つまり、感情は感覚のように具体的な行動が直結するものではなく、抽象的目的(行動)へ向かわせる指向性であり、前述のようにこの点では愛は感情と同様の特徴を含んでいるとも言えるであろう。

 ただ、上述のような感情の捉え方において、愛が感情であるとは言えそうにもない。その相違点のひとつとして、愛というものはそれそのものが快・不快を含むものではないということが挙げられるのではないだろうか。確かに愛を感じたときに快・不快を伴うことは多いであろう。しかし、それは愛という何らかの指向性を持ったとき、その結果としてその愛が叶うあるいは叶わないときに、(例えば、喜びや悲しみという)感情を伴うということでしかないのではないだろうか。つまり、愛は快・不快というものによって行動が促されるものではなく、それとは別の目的指向性と言えるのではないだろうか。言い換えれば、愛は快・不快があるから間接的に行動が喚起されるものではなく、直接何らかの行動を喚起するものなのではないだろうか。

 また別の相違点としては、感情の場合は抽象的あるいは全体的・包括的な状況に対する(快・不快としての)指向性であり、これに対して愛はそれが何であるかはともかく(例えば、ある人であるにせよある物であるにせよ)、限定的な対象に向かうものであることは確かなのではないだろうか。

 このように、愛とは感覚や感情という範疇にも入り得ない特殊なものであるように思える。それは、前述のように「感覚」とは<限定的な一般的対象>とその一部(快・不快を含む感覚)は<具体的目的(行動)>に向かうものであり、「感情」とは<抽象的・全体的・包括的な対象>と<抽象的目的(行動)>に向かうものであると言えそうである。これに対して、「愛」は<限定的対象>と<抽象的目的(行動)>に向かうものであると言えるのではないだろうか。


 このとき、感覚・感情ではない指向性として、(「精神とは」では取り上げなかったが)三大欲求というものに代表される欲求という捉え方もあるだろう。例えば、「食欲」というものは食べ物という<限定的な一般的対象>に向かうと同時に、エネルギーの摂取という<抽象的目的>にも向かうものであるかもしれない。では、愛は欲求という範疇に入るものであろうか。確かに、愛は性欲というものとの関わりを考えることもできるかもしれない。ただ性欲の場合、対象は根本的には異性(という一般的対象)に限定されるものであろうし、目的は子供を生むということに限定されるのではないであろうか。

 しかし、愛というものはもっと広範な指向性を含んで捉えられるものであるようにも思える。また、欲求と愛の相違点としては、上述のように対象の限定性におけるものであるということもできるであろう。それは、愛が<限定的な一般対象>に向かうものではないということである。

 以上見てくると、感覚や欲求というものは指向性の限定性が高く具体的なものであり、より基本的な指向性であるということができるかもしれない。それに対して、感情というものはより抽象的で、一般性が高いものであると言えるのではないだろうか。そういう意味において、愛というのはその中間に位置するものであるとすることもできるかもしれない。


 このように、愛というのは意識される精神において、特殊な指向性であるように思える。では、愛における指向性(としての対象あるいは目的)とはどのようなものであろうか。それを考えようとしたとき、愛と呼ばれるものの多様さということが問題となるのではないだろうか。例えば、異性愛・同性愛・母性愛・父性愛・家族愛・愛国心・隣人愛・師弟愛・友愛・博愛・マニア等々様々なものとして捉えられているのではないだろうか。

 このとき、愛といって先ず思い起こされるのは、親子間の愛と異性間の愛ではないだろうか。先ず、これらについて考えてみたい。親子間の愛を考えてみると、子育てというものに起因するものなのではないだろうか。それは、親子関係というものが継続される機会がなければ、それぞれに愛を感じようが無いであろうということである。そして、親の立場からするとその対象は自分の(あるいはそう思える)子供であり、その目的は子孫(あるいは遺伝子)をより確実に残す為に関係を継続するということに求められるかもしれない。

 しかし、子供の立場から考えてみるとその指向性はそれ程はっきりしないようにも思える。それは、この場合の対象は当然親(あるいは養育者)ということであろうが、目的が不明確になるのではないだろうかということである。この愛の発生要因も子育てに求めるとすると、その目的は育ててもらうことということになるかもしれないが、親を愛することが育ててもらうことにつながるであろうか。例えばそのような目的の為には、親の感心を惹いたり、可愛らしく振舞ったりすることであるかもしれないが、それを愛というであろうか。このように、子供から親への愛は別の視点が必要かもしれない。別の言い方をすれば、親子間の愛は同等のものではないということもできるのではないだろうか。


 また、異性間の愛について考えるてみると、その指向性の向かう対象というと当然異性ということになるであろう。では異性間のの愛における指向性の向かう目的というのは、どのようなものであると言えるだろうか。異性間における愛の目的というと、子孫を残すということが考えらるであろう。しかしこれを、子供を作るということに限定するとすれば、それは性欲だけで十分なのではないだろうか。そして、性欲というのはその対象の限定性が低い(特に雄の性はばらまき型のことが多い)ようにも思えるし、またそれが満たされたとき一時的には消滅するものでもあうように思える。これに対して、愛は対象の限定性が高い(つがいという限定的な関係)ようにも思えるし、それがある程度の継続性を持ったものであるようにも思える。

 しかしこの目的を、子供を作り育てることに求めようとすれば、このような特徴の妥当性を見ることができるかもしれない。それは、このような愛の対象は、自分の子供の親である(あるいはそうしたい)異性に限定され、少なくともその子供の成育という期間の持続性を持つものである必要性が出てくると言えるのではないだろうか。つまり異性間の愛は、夫婦(つがい)が共同して子育てを行うことに起因し、その関係の継続を促し、その目的の為の援助・協力に向かう指向性として捉えることができるのではないだろうか。


 これらの愛のあり方を見てくると、その対象指向性はひとつには上(親)から下(子)対してのものであり、またもうひとつには共同(あるいは協働)生活者(夫婦・つがい)へのもの(前述の子供から親への愛もこの共同生活ということに求めることができるかもしれない。)であり、その目的指向性はその関係性継続を基にした、そのものへの保護・協力にあるように思える。

 そして、これらの特徴はその他の愛とされるものにも共通のものなのではないだろうか。それは、その他の愛もその対象は主体にとっての下へ向かうもの(父性・母性愛や師弟愛や動物愛護等)と、ある目的の為の同士としての同等のものへ向かうもの(異性愛や家族愛や愛国心や友愛等)に区分することができるのではないだろうか。また、その目的は前者においてはそのものの保護であり、後者においてはそのものへの援助・協力にあると言えるのではないだろうか。つまり、その他の愛もこれらからの派生・拡大(それは対象の変化や対象の範囲の拡大)として捉えることもできるかもしれない。


 ここで、もう一度愛における(対象・目的)指向性についてもう少し具体的に考えてみる。愛を感じる対象というのは、上述のように様々なものがあるだろうが、それはある限定的な対象に向かっているということは確かであろう。しかし、その対象というのは一般的な区分としての限定(視覚における「光」や、食欲における「食べ物」のような一般的対象)ではなく、その愛を感じているものの主観的限定がなされているということなのではないだろうか。つまり、愛を感じるということは、その対象を主体が(他のものにとってそれが何であるかに関係なく)特別なものとして感じるということなのではないだろうか。

 また、その目的指向性としての行動の喚起においては、その具体的な行動は様々(抽象的目的性を持っている)であろうが、その主体が特別視する(愛する)対象の目的指向性(何を求めているか)を解釈し(ようとし)、それを実現し(てあげ)ようとする行動をとろうとすることなのではないだろうか。それは、上述のように愛の目的が対象に対する保護や協力にあるとすれば、その対象にとって何が保護や協力に値するのかを理解しようとしなければならないであろう。そして、それはその対象の指向性が何処に向かっているか(何を望んでいるか)ということが解らなければ(少なくとも解ろうとしなければ)ならないということであり、それを実現しようとすることが保護や協力ということになり得るかもしれないということになるであろう。


 つまり、「愛」という指向性は<主観的な限定的対象>と<抽象的目的(行動)>に向かうものであると言えるのではないだろうか。そして、愛を感じるのはそれを感じさせ得る(自己にとって特別のものと思える)対象との出会い(の認識)によって喚起されるものということであろう。また、通常利己的指向性によってなされる場合がほとんどの行動において、愛はその対象の指向性を解釈しそれを実現しようとする、利他的指向性的な意味合いを含んだ特殊な指向性(但し、それはあくまでその行動の主体の指向性である限りにおいて利己的であるとも言えるが)であるとも言えるのではないだろうか。

posted @ 2008-03-28 10:53  荖K  阅读(717)  评论(0编辑  收藏  举报