日语阅读-2-如何看“何々的”的用法
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「何々的に」という表現は非常に便利なものですが、最近その適用範囲が広げられて、あまりに安易に使われているような気がします。例を挙げれば、「わたし的に言えば」とか「気持ち的にはOKなんだけど」とか。
“何々的に”这种表达十分的方便,最近其适用范围也日渐扩大,而我倒觉得使用得太过于随意了。举个例子,比如“わたし的に言えば(我个人来说)、”“気持ち的にはOKなんだけど(心情上觉得还行)”等等。
こういう表現が何故しっくり来ないかと言えば、まず「わたし」も「気持ち」もともに「やまと言葉」だからです。「的」という接尾語は、絶対やまと言葉につけてはいけないという訳ではありません(「さみだれ的に」という用例があります)が、漢語につけたほうがより座りが良くなります。
对于这样的表达,我总感到有些别扭,首先是因为,“わたし”和“気持ち”都属于和语词。虽说也没有硬性规定结尾词“的”不能接和语词,但接在汉语词后协调性更好。
それが証拠に「わたし」を「私」に変えて「私的」とすれば違和感はありません(ただし、この場合はシテキと読むことになり、意味も変わって来ます)。「気持ち的」は気持ちの悪い表現ですが、「気分的」なら気分が悪くなったりはしません。
为了证明这点,可以试着把“わたし”换成“私”,变成“私的”后就不显得别扭了(不过,这个词读作“シテキ”,意思上也有了改变)。“気持ち的”让人感到很不自然,如果换成“気分的”就自然多了。
「的」の働きは名詞を形容動詞化して他の単語と結びつけることです。どういう時に「的」をつけるかというと、活用語尾をつけて形容動詞にできるものはそのまま使用する(「的」はつけない)活用語尾をつけても形容動詞にならないものには「的」をつけて繋げる
“的”的作用是把名词转化成形容动词,进而能够接续其它词语。那么什么时候可以接“的”呢。如果是添加活用语尾就能形成形容动词的名词,保持原样即可,无需加“的”,如果是添加了活用语尾也不能形成形容动词的名词,则要加上“的”。
例えば「確実」「自然」「明白」などの名詞は「確実だろう」「自然な」「明白に」などと形容動詞化できるので「的」はつけません。時々「自然的に崩れた」などと言っている人がいますが、それは本来間違いです。「自然に崩れた」で良いのです。
比如,“確実”、“自然”、“明白”等名词能够自己变成形容动词,如“確実だろう”“自然な”“明白に”等用法,那么就不需要在后面加上“的”。有时候也有人说“自然的に崩れた”,不过这本来就是误用。正确的说法是“自然に崩れた”。
それに対して、「壊滅」「女性」「効果」などの名詞はそのままでは形容動詞にならないので、「壊滅的だろう」「女性的な」「効果的に」と「的」を挟んで形容動詞にします。
与此不同的是,“壊滅”“女性”“効果”等名词则不能原封不动地转化成形容动词,因此需要加上“的”使其形容动词化,如像“壊滅的だろう”“女性的な”“効果的に”这样。
「的」の別の用法として、活用語尾をつけずにそのまま他の名詞にくっつけることもできます。例えば「段階的発展」とか「象徴的事件」とか・・・。ただし、この場合後に続く名詞は通常漢語です。
另外“的”还有一种用法,可以不添加活用语尾,直接接续其它名词。比如“段階的発展”或“象徴的事件”等等。不过这种情况下,接在后面的名词一般也是汉语词。
高校時代の同級生で、英語の授業中に "modern ships" を「近代的船(きんだいてきふね)」と訳して失笑を買った奴がいたのですが、これは「船」がやまと言葉だから座りが悪いのであって、「近代的船舶」とすればおかしくもなんともありません。中国語にもよく「的」の字が使われていて、見ているとどうやら単純に「の」に置き換えられるケースが多いみたいです。しかし、日本語の場合は必ずしもそうは行きません。例えば「日本の建造物」と「日本的建造物」は微妙に違いますし、「詩の表現」と「詩的表現」も違います。
记得高中时代,有个同班同学在英语课上把“modern ships”译成了“近代的船”,引起大家的哄笑。其实这就是因为“船”是和语词,搭配“的”并不协调,如果译成“近代的船舶”,就不会显得滑稽了。中文里也时常使用“的”字,不过细看会发现,大多数情况下,都可以同“の”进行简单地替换。而在日语中,这个方法则不一定行得通。比如说,“日本の建造物”与“日本的建造物”之间就存在微妙的差异,而“詩の表現”与“诗的表现”也有区别。
日本語の「・・・的」は、意味の面では「・・・に特有だ」「本当に・・・らしい」「・・・の性質を持っている」「まるで・・・のようだ」ということを表わします。「日本的建造物」は「日本の伝統に特有な様式を踏まえた建造物」であって、日本国内にある近代西洋的ビルディングは含みません。「詩的表現」は「まるで詩のような表現」であって、それが実際に詩の中で使われているかどうかは関係ありません。「的」の1字で随分と深いニュアンスを表わしている訳です。
说到日语中的“的”,它表达的意思是“・・・に特有だ(某方面特有的)”、“本当に・・・らしい(和...很相似)”、“・・・の性質を持っている(具有某种性质)”“まるで・・・のようだ(像...一般)”。“日本的建造物”指的就是“遵循日本传统特有样式的建筑物”,日本国内的近代西方建筑不在此列。“诗的表现”则说的是“像诗歌一般的表达”,而实际上是否在诗歌中使用则无关紧要。可见,“的”这个字语感上很是微妙。
最近はびこっている気持ちの悪い「・・・的」の大半は「・・・としては」の代わりに使われるものです。上の「気持ち的には」もそうですし、「わたし的に言えば」も近いものがあります。他にも「長さ的にはちょうどだけれど幅が足りない」などと言ったりします。私としては、こういう使い方は大いに気に入りません。
最近,让人感到不自然的“的”用法泛滥一时,而其中的大部分,都可以用“・・・としては”来替换。比如上述的“気持ち的には”就是如此,“わたし的に言えば”也是类似的用法。其它的说法还有“長さ的にはちょうどだけれど幅が足りない(长度尚可,宽度不足)”等等,我个人是很不赞同这类用法的。
しかし、別の例を挙げれば、「気分的には」と言う表現は単に「気分としては」という意味で、決して「気分に特有な」とか「本当に気分らしい」という意味ではありません。つまり、「気持ち的」も「気分的」も用法としては全く同じなのです。なのに私はこの表現(「気分的」)がちっとも嫌ではありません。
不过,如果举出别的例子会发现,“気分的には”也只是单纯表达“気分としては”的意思,绝不会有“気分に特有な”或“本当に気分らしい”的意思。也就是说,“気持ち的”和“気分的”的用法完全是一样的。不过我倒一点都不讨厌“気分的”。
単に気分的なものでしょうか。それとも冒頭で述べたように、「わたし」「気持ち」「長さ」がやまと言葉だからなのでしょうか?いずれこの辺りをもう少し研究して続きを書きたいと思います。
仅仅是个人喜好吗?亦或是像本文开头所述,“わたし”、“気持ち”、“長さ”是和语词的关系呢?今后在这方面还需要继续探索。