日语阅读-1-如何看ほう的用法
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最近気になるのは、若い人がやたらと「ほう」をつけて喋ることです。マクドナルドに入ってひととおり注文すると、「はい、てりやきマックバーガーのMセットのほうで宜しかったでしょうか?」などと言われます。
最近年轻人说话爱随便加上“ほう”,这引起了我的注意。比如走进麦当劳大致点完餐后,服务员会说,“はい、てりやきマックバーガーのMセットのほうで宜しかったでしょうか?(好的,您点的是照烧麦乐宝M套餐对吗?)
まず、「宜しかった」と過去形(かこけい)なのは説明がつかないでもありません。つまり、「私はてりやきマックバーガー・セットと聞いたのですが、それで宜しかったのでしょうか?」という感じでしょうか。しかし、この「ほう」のほうはよく解りません。「AとBとどちらのほうが良いか」と言う場合の「ほう」ではなさそうです。
首先,用“宜しかった”这种过去式倒也不是没有理由,意思也就是在说,“私はてりやきマックバーガー・セットと聞いたのですが、それで宜しかったのでしょうか?(我已经接受了您订的照烧麦乐宝套餐,这些就可以了吗(还有其他什么要求吗?)。不过,“ほう”的用法则不大能理解了,看上去并不是像“AとBとどちらのほうが良いか(A和B哪一个更好)这种场合中的用法。
「ほう」=「方」です。従って「ほう」には方面・方角を現すと同時に目標をぼやかせる働きがあります。「駅へ行った」と「駅のほうへ行った」を比べると、後者のほうは必ずしも駅が目的地ではありません。
“ほう”就是方向的意思。因此,“ほう”在表示方向方位的同时,还起到模糊指示目的地的效果。比较“駅へ行った”和“駅のほうへ行った”会发现,后者的目的地并不一定就是在车站的位置。
「南」と言えば明確にある方向を指しています。それに対して「南のほう」と言えば正確に南である必要はなく、南南西や南南東なら許容【きょよう】範囲だろうし、場合によっては東南東や西南西でも許してもらえるかもしれません。
像“南”明确指示了某一方位。而与此相对,“南のほう”并不一定必须分毫不差地指示南方,西南南、东南南都在它的允许范围内,遇到特殊情况用来表示东南东、西南西的方向也行。
彼等はこのぼやかせる意味の「ほう」を動詞の過去形と合せて敬語の変わりに使っています。動詞の過去形のほうも実は同様に表現をぼやかせる働きを持っています。
他们用带有模糊意义的“ほう”和动词过去式相配合,替代了敬语。因为,动词的过去时实际上也具有使表达变得模糊的作用。
「これで宜しいでしょうか」と言ってしまうと何だか事実を眼前に突きつけられるような切迫した響きがあるのに対して、「宜しかったでしょうか」と言えばまるで過ぎ去った昔を回顧するような優しさがあります。表現をぼやかせることは聞き手と距離を置くことになり、従って敬語の代わりとなるのです。
“これで宜しいでしょうか”给人一种紧迫感,就好像一个事实被突然摆在眼前。而“宜しかったでしょうか”则显得委婉,就好像是在回忆已成过去的往昔。使用模糊的表达,其实也是说话人对听话人保持一定距离感,因此就成为了敬语的替代。
敬語【けいご】が苦手な若い連中【れんじゅう、伙伴】はこのように表現を曖昧にしてしまうことによって敬語の代用としているのです。このことを「けしからん」と言う人がいます。「物事をはっきり言うのを避けて生きて行こうとしている」といった批判です。ただ、これはあまりに短絡的だと私は思っています。
所以,对敬语感到头疼的年轻人们通过模糊委婉的表达来代替使用敬语。有人觉得“很不像话”,他们批评说:“(年轻人)说话绕弯子,生活态度模拟两可。”不过,我觉得这个批评有些武断。
言葉というものは何千年もの間ずっと省力化・単純化の傾向に進んでいます。だから言葉が進化したのであって人間が退化した訳ではない、というのが私の感じ方です。
语言在这几千年来,一直朝着省力化、简洁化的方向发展。正是因为语言在发展,人才没有走向退化。这是我的个人看法。
無論このことをやはり退化だと言うことはできます。ただ、それを言うなら、今まで歩いていた人間が車で移動するようになったのも一種の退化です。確かにそのことによって筋力や持久力は昔のホモ・サピエンスより落ちているのでしょう。だからといって車や機械を全て廃棄してしまうのが正しいこととは思えません。
当然,这也可称为是一种退化。不过要是这样说,那么过去一直步行的人类改用汽车行动也就是一种退化了。的确,因为有了汽车这些交通工具,现代人的体力和耐力比不上过去的人。但仅仅因为这样,就要全盘抛弃汽车和机械,也绝非正确的态度。
運動の機会が減ったからと言って一生懸命ジムに通ったりジョギングをしたりしている人がいます。その人たちが車に乗っているのを見て、「お前たちは文明に胡坐をかいて退化してしまった」と言うのは正しくないでしょう。だから、曖昧な喋り方をするのを聞いて「生き方がけしからん」というのもまた間違いなのです。
虽然运动机会减少了,但还有不少人到体育馆健身,或是跑步锻炼。看见这些人乘坐汽车,就批评他们“悠闲坐享文明”,这恐怕不太正确吧。因此,听到年轻人用暧昧的表达,就批评他们“玩世不恭”,这也是错误的。
若い人たちの言葉遣いでずっと問題視されているものに「出れる」「見れる」などの所謂「ら抜き言葉」があります。「れる」は5段活用の、「られる」は1段活用の未然形につくので、本来は「出られる」「見られる」とすべきところを「出れる」「見れる」にしている訳です。
还有一种年轻人的用语也经常受到批评,这就是“ら抜き言葉”,比如“出れる”“見れる”等等。“れる”接在五段活用后,“られる”接在一段活用未然形后,因此原本用法应是“出られる”“見られる”,而现在则成了“出れる”“見れる”。
これも一種の省力化です。しかし、ただ単に1音抜いて短縮したものではありません。助動詞「れる・られる」には受身・可能・自発・尊敬の4つの意味があります。
这也是语言的一种精简化。然而也并非是去掉一个音,减少音节数量的简单做法。助动词“れる・られる”存在四种意思:被动、可能、自发、尊敬。
「見られる」は「他人に覗かれる」という意味にも「見ることができる」という意味にも取れます。それに対して「見れる」を使った場合は、可能の意味であることが明白になるというメリットがあるのです。そういう訳で5段活用の動詞だけでなく、カ行変格や上1段・下1段活用の動詞も可能動詞化するのです。
因此“見られる”既有“被别人窥见”的意思,也能理解为“能够看见”。与此相对的是,使用了“見れる”,表示可能的意思就显得明确起来,这是它的优点。这样看来,不仅五段活用的动词,か行变格和上一段、下一段活用的动词将来也会走向可能动词化(像五段动词え段化后变成可能动词那样)。
このことは、言葉が全般として合理化の傾向にあるということの一例であると思います。言葉は単に崩れるのではなく、それなりのメリットを獲得しながら崩れて行くのです。だから重ねて言います。言葉が進化したのであって人間が退化した訳ではないのです。
语言整体上是趋向于合理的,上述现象便是一个例子。它不会简简单单地发生改变,在改变同时也会取得相应的进步。因此我再次重复之前的话,正是由于语言在发展,人类才没有退化。
などと言いながら、私自身は決して「ほう+過去形」や「ら抜き言葉」は使いません。言葉は一方で生活様式の一部でもあるのであって、これらの表現は私の生活様式にはマッチしないと感じるからです。言葉は基本的に個人の持ち物であると思います。
尽管这样说,我自己倒从不会使用“ほう+过去形”或“ら抜き言葉”。毕竟语言也是生活方式的一部分,而这类表达与我自己的生活方式格格不入。我觉得,语言基本上是会带有个人印记的。
やたらと
【副】
(1)不考虑后果地做某事。(先のことや結果を考えずに物事を実行するさま。)
(2)事物的程度、频繁程度在必要以上。(ものの程度や頻度が必要以上であるさま。)